「250分の249」が共通的に持つ「常識」からの脱却
- 2022.02.21
- 2022.02.21
今の日本には、物質的にも心理的にも十分に満たされている子どもたちがどれほどいるでしょうか?「幸せ」という物差しは、一定ではないので、いろんな見方や考え方ができるかもしれません。でも、例えば見方をわかりやすくして、学力や収入といったものが、親のそれと同程度かそれよりも超えることができている子どもというと、意外に多くはないのではないでしょうか?
こうした人は、日本の中にどれくらいいるでしょうか?「0歳〜18歳の英才教育」では、子どもたちが社会で活躍の具体的に数値化でき得る目安として。子どもたちが社会に出た後、年収で1,000万円以上を得られるようにするという目標を掲げています。もしくは、たとえ年収を1,000万円以上にする必要はないと思われている家庭でも、子どもたちが狙ったものを確実に手にすることができる状態になることを目指しています。
そうした「思うがまま」のような人生を送れている人は、日本の人口の果たして何%くらいでしょうか?自分自身、自分の周りの人を見回してみても、そうした人は、とても少ない、またはほとんどいないというのが現実ではないでしょうか?事実、もしあなたが今、世間で言われているような「常識」に沿って生きているのであれば、「思うがまま」の人生を送るのは難しいでしょうし、子どもたちもそうした幸せを手にするのは難しいでしょう。
年収1,000万円以上や、狙ったものを確実に手に入れる人生を送っている人は、日本の人口の中でも、限られた一部でしかないからです。具体的な数字で言えば、本当に狙ったものを常に確実に手に入れられる人は、250分の1程度でしょう。ピラミッドの頂点で、面積として表現困難な点のような割合の方。それ以外の、「250分の249」の人たちは、ピラミッドの下、つまりその他大多数ということになります。
僕たちが、「0歳〜18歳の英才教育論」のコミュニティ『ワンチーム』を通してお話していることは、ピラミッドの上の方、250分の1の子どもたちを育てるための考え方や方法です。しかし、250分の1の子どもたちを育てるための考え方や方法ということは、ざっくりと言えば250分の1程度の人しかこの考えを持っていないということになります。つまり、「250分の249」の人たちの考え方、すなわち「世の中の常識」とは全く異なってくるということです。
この基準は、「ワンチーム」を通して、「0歳〜18歳の英才教育論」を語り合うにあたって、とても重要です。というのは、子どもの教育という、おそらくはほとんどの両親が未経験のままぶっつけ本番で取り掛かっていく一大仕事は、未経験だからこそ、ことあるごとに「みんなと一緒のことをやっていれば大丈夫だろう」といった感じで世の中の常識に流されたくなってしまうからです。
でも、そうして常識に流されてしまっては、250分の1の「狙ったものを確実に手に入れられる幸せな子ども」は育たないのです。実際、大人の世界、見渡してみればわかるように、「みんなと一緒がいい」という考え方を持っている人は出世しません。大きく出世するのは、どういう人でしょうか?既存の教育にまつわる常識や思い込みについて、打破していくことが大切です。少なくとも「常識を疑う」という癖を持っていただくことが大切です。
目次
今の学校は私たちの世代とまるで違う
教育といえば、私たち両親が直接行うものだけではありません。むしろ、子どもたちの成長過程を考えれば、私たち親による教育よりも、小・中・高と学校で受ける教育の時間の方が長いかもしれません。そのことを考えて、親御さんの中には、小学校、早ければ幼稚園などから子どもを受験させて、より良い学校に行かせようという方もいます。
でも、そのように考えている方は、もしかしたらあなた自身も含め、実際にはそこまで多くはないはずです。僕たちが学生だった時代の学校を考えれば、幼稚園や小学校などといった早い段階から受験をしなくても、それなりに勉強していけばいい大学、いい企業に就職できるという道がひらけていたように思います。また、学校の中の環境も、生きていく上で大切なものの考え方や道徳といったものを教えてくれる先生たちをはじめ、それほど悪いものではなかったのではないでしょうか。
ところが、です。僕たちが学生だった頃から、僕たちの子どもたちが学校に通うようになるまでに、時間で言えばざっくりと20年くらいは経っています。そして、20年も経てば、学校の環境も、僕たちの頃の常識では考えられないような変化が起こっていて不思議ではありません。
僕が教えを乞うているメンターマスターヒロさんも、実の所、長女さんが小学校に入る段階では、幼稚園受験、小学校受験という存在は知られていたものの、自身が公立の小学校出身だったこともあり、その辺りのことはあまり考えていなかったと言います。ところが、いざ長女さんが地元の小学校に入学してみると、入学式の段階から目にした光景、耳にしたことに唖然としたと言います。
入学式では、先生が「これから大事な話をするね」と言っているのに、子どもたちだけでなく親たちが一緒になって写メを撮っているし、授業が始まったら始まったで長女さんから「みんな授業受けずに教室出て行っちゃう」という話を聞くありさま。学級崩壊は当たり前で、当然ながらそんな様子に長女さんはとても嫌がっていたようです。小学校だけでなく、大学の受験環境も、私たちの世代とはかなり変わっているように思います。
ガチ勢たち集う「オープンキャンパス」
こちらは、我が家のできごとですが。「コロナ禍」前のこと。長女の大学受験活動の前に、オープンキャンパスを訪れました。僕が記憶する限りでは、そういった大学見学というのは、学校に来た案内に適当に目を通して、なんとなく行ってみるかとだらだらキャンパス内を歩いて帰ってくるというようなものだったように思います。でも、現代のオープンキャンパスは違いました。
見学会は定員制で、オンライン予約が開始10分や20分そこらで全部締め切り。いざキャンパスに行ってみると、周りにいる他の子どもたちや親御さんたちが血眼の勢いで大学を見て回っているのです。そんな様子を見た長女が、家に帰ってから「お母さんたちも子どもたちも、 みんなギラギラしている」と言って怯えてしまったほどでした。
もちろん、ここに挙げたのは僕たちが経験したほんの一例に過ぎない事例ですし、自分の時代にはそんな事例がむしろ当たり前だったという方もいるでしょう。とはいえ、日本の中だけでも学校は数え切れないほどありますし、自分たちが親になっている頃には、かつての学生時代から少なくとも10年から15年以上は時間が経過しているのが当たり前です。
そのため、いずれにしても、自分たちの経験だけを元にして、学校の教育や環境はこんなふうになっているだろうと考えると、期待や予想を裏切られる可能性が高いのです。「ワンチーム」の活動を通して、「常識を疑う」という言葉が何度か出てきます。子どもたちの人生において最初に大きな影響を与えるであろう学校について、自分の中にあるイメージを打破することが求められることも多々あります。
自由の弊害
学校教育のほかに、もう一つ、子どもたちの教育を考えるにあたって打ち破っておきたい考え方があります。それは、僕たち夫婦も陥っていた、「自由な教育」というものです。「自由」というと、何かとてもいい響きをしているもののように思えます。子どもたちが、大人たちの言うことや考えることを押し付けられずに、自由に考えて、思うがままに行動していくと書けば、そんな教育に対しては誰でもそこまで否定はしないでしょう。
でも、そんな完全フリーな教育方針こそが、かつて僕たち夫婦が陥ってしまった「危険な道」への入り口であり原因となってしまうのです。考えてもみてください。1歳や2歳のまだ言葉も喋れるかどうかといったくらいの小さな子どもたちが、気の赴くままに自由に行動して、例えば道を走り抜ける自動車など、自らの身を危険から遠ざけていくことができるでしょうか?
小学生や中学生の子どもたちが自由気ままな生活を送って将来の安定した生活に結びつくようないい成績を取ってくることができるでしょうか?何も手をかけず、子どもたちの自由に任せて成長させていけば、我が家の子どもたちが陥ってしまったような一日中YouTubeを見たりゲームをしたりして過ごすという生活になってしまいかねません。
とはいえ、「自由」といえば十把一絡げに悪いかといえば、そういうわけではありません。子どもたちを育てるにあたって大切にしなければならない自由も存在します。その自由とは、「選択の自由」です。生きている中、世の中でごまんと出くわす人生の選択肢の中で自分にとって何が本当に必要で合っているのかを考え、選び取っていくためには、子どもたちに小さい頃からことあるごとにいろんな選択肢を与えて選ばせていく必要があるのです。
そうした普通の日本人が考えている「自由」と、子どもたちにとって本当に必要な「自由」とを比較できるようになれるか?ここもとても大切なことです。日本では、「自由」という言葉をどうしても自分たちの都合のいい方向に取ってしまいがちです。ともすれば「自由」を、自分たちが本当にやるべきことから逃げるための口実に使ってしまうことすらあります。
長女が中学校の時に、専門学校への道を選びかけたのもそうした例の一つでしょう。受験勉強は確かに楽しいものではありませんが、「自由」を理由に逃げてはいけません。そうした「自由」という言葉以外にも、言葉尻の楽な面だけが先行していて、その言葉のあるべき捉え方の姿がしっかりと考えられていないところが大きくあるように思います。「自由」以外の言葉であれば、「褒めて伸ばす」といった言葉もそうです。
褒めることは確かに大事ですが、何でもかんでも褒めればいいのかといえば、そうではありません。子どもたちが何かを必死になって頑張ったのであれば、もちろん褒められる要素もありますが、例えば運動会の100メートル走でふざけた調子で歩くといった様子なら誉めようがありません。「褒めて伸ばす」ということも、「何を褒めて」「どう評価するか」をしっかりと考える必要があるのです。
今、世の中には、子どもについて様々な教育本や方法論が出回っています。それだけでなく、教育には昔から言われているような命題もたくさんあります。ですが、今日ここで取り上げた「自由」や「褒めて伸ばす」といったもののように、それらは言葉尻を捉えるのでなく、その奥にある「どうして大切と言われているかの根拠」を知る必要があります。そしてそのためには、やはり一度、自分の中にある「常識」と対峙して、子どもたちにとって本当は何が一番必要なのかを自ら考え直していく必要があるのです。
追伸1・・・
1日3分LINE@「ワンチーム」を通して、両親であるご自身が、「子どもの教育」について学んで頂くことを、推奨致します。『LINE@コミュニティ・ワンチーム』https://p.kitasociety.com/line
追伸2・・・
子どもたちの実質「競争力」を高める教育方法とは?社会での活躍から完全逆算された子どもの教育コミュニティ『ワンチーム』の説明会を兼ねたオンラインセミナーを開催します。次回開催日時を確認の上お申し込み下さい。https://joinnow.live/s/VxNHWQ