具体的な目標ができると基準が発生し、学ぶ意味と価値が生まれる

  • 2022.06.22
  • 2022.06.22

年収なんて別に上がらなくてもいい。今のままで十分シアワセなのですから!今の年収で住める家、使える交通手段通える子供の学校、ありのままで生きられればそれで良いのです!・・・という場合は、誰もその価値観に良いも悪いもコメントしようがありません。「ありの〜ままで〜空へ風に乗って〜♪」『アナと雪の女王』の日本語版の主題歌『レット・イット・ゴー(ありのままで〜)』のサビの部分のような生き方をする。どうぞ、そのシアワセな人生を謳歌してくださいね!としか申し上げることができません。

なぜなら、何を成功と思うのか?何をシアワセと思うのか?価値観は人それぞれですし。価値観の押し付けほど要らないものはありません。特に目指すところがなければ、良い・悪いの基準も何も発生しないからです。けれどもその場合、歌詞にあるように「二度と涙は流さないわ♪」「少しも寒くないわ♪」を貫き通す必要性に迫られることになると思いますが。ご本人がそれで満足ならばそれもそれです。けれども、「私は今の暮らしに満足行きません」このままの収入ではミライは詰んでしまう。人生を変えたい、もっと稼げるようになりたい!」「いくら稼げるようになりたいのでしょうか?」「年収1,000万を取れるようになりたいです!」・・・と、具体的な目標を掲げた瞬間に。同時に、基準と言うものが発生してしまいます。

この場合は、「年収1,000万」の目標達成を基準とした、良い・悪いの基準が発生します。問われたメンターの方も、「目標年収1,000万」を基準に、アドバイスさせて頂くことになるわけです。そして、そうしたいか、したくないかは関係なしに。本当に「年収1,000万」を達成したいのなら、「年収1,000万」を達成するために必要なことはせざるを得なくなる。「考え方=脳のOS」を変える必要があるのなら、変えざるを得なくなる。「やり方=設計図」を変える必要があるのなら、変えざるを得なくなる。好きか嫌いか?やりたいかやりたくないか?ではなくて、するべきか、するべきじゃないか?の基準一択で、考え、判断して行くことが必ず求められるのです。

「ありの〜ままで〜♪」を地で行く人生

客観的に世の中を見ると、社会人と呼ばれる大人たちも、その大多数は、まるで浮き輪で海にプカプカ浮かんでいる状態です。まさに、「ありの〜ままで〜♪」の歌詞そのものの人生を歩んでいます。「この歌詞翻訳したの誰だよ?」大衆の心を的確に鷲掴みする、天才コピーライターの存在を背後に感じます。だから、『アナと雪の女王』も大ヒットしたのでは無いでしょうか?しかし、そういうありのままの人生を送ると、自分が決めているはずなのに。世の中では同時に奇妙な現象も発生しています。

それは・・・海でプカプカ浮かんでいる状態の彼らも。ビジネスや投資でお金を稼ぐ方法に興味を持ってみたり。自己啓発本の類を読んでみたり。自分を高めて成長させる類のお話にも興味を持ったりするのです。ここにも価値観の自由があるので、誰が何に興味を持ったり読んだり、学んだりしても自由なのですが。しかし彼らは現実を知る必要があります。

「学んでも稼げるようになりませんし、成長も何もしませんよ。」ということです。単に、『アナと雪の女王』の映画を鑑賞した時のように、感情が動いたりはするかもしれませんが。何か人生が変わるわけではありません。なぜなら、「浮き輪でプカプカ浮かんでいる」ということは、そもそも、どこも目指して無いのですから。具体的な目標が無いので、基準が何も発生しない。すると、その手に取った本が、良いのか悪いかも誰も分からない。どこも目指していないので、前進しているのか?後退しているのか?さえも誰も分からない。

本人だって分からないのですから、他人はもっと分かりません。単に、時間と労力を浪費して学び、感情が動いた・・・という事象しか発生していない。それが目的なのであれば、「目的が果たせて良かったですね・・・」ということになるだけです。僕はこれに対して、良い悪いを言っているわけではなく、世の中ではこのような不思議な現象が起きていますねと、客観的に論じているに過ぎません。この場合は、いかなる優れたメンターであったとしても。誰も何も導くことはできません。なぜなら、目指しているものが、何も無いのですから導きようがありません。

目標があるから学ぶ意味と価値がある

何のために学ぶのか?何のために、メンターから教わり、考え方を変えて、やり方を変えて、実行するのか?それは、自分が目標としていることを失敗することなく、必ず成し遂げるためです。つまり、具体的に目指すところ、ほしいモノ、叶えたい願いがなければ。学びの意味と価値そのものも、発生しないのです。学びというものは、具体的な目標を持てた方にのみ、意味と価値が発生するものであると分かります。

例えば年収で言えば、「このままの収入では、家族がシアワセになれません。こんなマイホームに住みたいし、あんな車に乗りたいし、子どもたちにもそんな素晴らしい学校で敎育を受けさせたい。食べるものだって、着るものだって、もっと良いものを食べたり着たり自由に選択できるようになりたい!余暇に近所の公園に散歩だけでなくて、海外旅行にだって行けるようになりたい!」この気持が出て来た時にはじめて、「年収がいくらになれば、それが実現できるのですか?」「計算したら、年収1,000万でした!年収1,000万になれるなら、何でもします! 私が最短で年収1,000万に到達できるように、考え方とやり方を教えて下さい!」・・・という状態まで来て、具体的な目標が定まったことになりますので。

その目標を、お金、時間、労力から見た、最短のコストで成し遂げるべく。考え方とやり方を学ぶ意味と価値が出てきますし。生きた情報を的確に授けて下さるメンターの存在の重要性が出てくるのです。その際、現在の年収が日本の平均年収415万だとした場合。目標年収が1,000万。差額が年間当たり585万。毎年年収1,000万取れるよう自分を高めて成長させることができるようになれば。10年間で5,850万、20年間で1億1,700万も年収がアップすることになる。これが見えるのでれば、何かを学んだり、メンターから教わったりする費用が、数百万とかかろうとも。メチャクチャ安い割に合う投資ということにもなるのです。

全ての基準は「目標年収1,000万」

しかしこの際、自分自身が目標を持ったことで、発生する基準をずらしてはなりません。例えば、目標年収1,000万であれば、全ての基準は「目標年収1,000万一択」です。目標年収1,000万になるためだけになれる方法だけを学ぶ。目標年収1,000万になるために正しい学びや教えの場やメンターを見つけて、正しく学んだり、教わったりしたことを元に、正しく考え方を変えて、正しくやり方を変えて、正しく実行し続けることが求められます。その際、好きだ、嫌いだ、得意だ、苦手だ、楽だ、大変だ・・・などの別の基準を持ち込んでしまってはなりません。

なぜなら、別の基準で判断して行動してしまっては。そもそも、学んだり、教わったりしたことが全て無意味になります。どんな優れた教材から学び、どんなに素晴らしいメンターから学んだとしても。絶対に目標を成し遂げることはできなくなる。結局は、挫折をするか、諦めるか、「私の人生は 変わることが無かった・・・。」という結論に至ってしまうわけです。こうした現象を基準のズレや、逃げグセと呼びます。

これは、恐ろしいことに、放おっておくと、何度も習慣的に同じことを繰り返しますので。これから先の人生、何歳になって、何に取り組もうとしても、全く同じ基準で判断して、挫折して諦めることになります。そうしていく内に、50代、60代・・・と年齢ばかりが嵩んでしまい同時に老衰して行く。やはり、「何も変わらなかった人生」が確定してしまうわけです。だから、どこかで決意と覚悟を固めなければなりません。

「目標年収1,000万を成し遂げるために!」「昨日までの自分にサヨナラを告げる!」教材や、メンターから教わったことを元に。考え方を変える必要があるのならその通り変えるし。やり方を変える必要があるのならその通り変えるし。目標年収1,000万を達成するためなら、何でもやります!と。この強い気持ちがあって、人生を変えるべく、目標に向けて歩むスタート地点にようやく立てるわけです。