父が他界、改めて決意を固めたこと

  • 2023.03.13
  • 2023.03.13

僕の実の父が、72歳3ヶ月で亡くなりました。コロナ前に、両方の祖父が95歳で亡くなりましたが。日本の男性の平均寿命が約81歳ということを考えると。あまりにも短すぎる生涯だったと思います。その時、マレーシアに戻ってきたばかりだったのですが、知らせを受けた日に日本行きのチケットを即座に予約。翌日急いで日本に一時帰国することになりました。

今回は、マレーシアに向かう直前に、妻と一緒にハワイで買ってきたお土産を持参して両親のいる実家に訪れ、父とお話しました。既に約13年間の間に6度も切開手術を繰り返して来たこともあり。まともに声を出せない程の重度の障害者認定をされている状態でしたが。脳はしっかりとしており、食欲も健常者並みにあるし、車の運転も自力でできる状態。「新しい車を購入したい!」と言っていたので。

孔明「あの世にお金を持って行けるわけではないのだから、是非買った方が良いよ!」と申し伝えて、実家を後にしたのですが・・・。マレーシアに帰国した後、母から緊急入院と手術の連絡を受けたのです。「腸閉塞」と診断されて、父は自らの意思で、「手術をする」と医者に回答をしたのです。

手術後・・・父「ママへ。こんどくる時、くつ下持って来て下さい。」

母「パパ、意識もどりましたか?」と、復活のやりとりがあり、7度目の切開手術も無事に生還したということで、ホッと胸を撫で下ろしたのですが、その後、容態が急変。昏睡状態に陥り、二度と戻って来ることは無く永眠に至りました。約13年もの期間、合計7回も切開手術を繰り返しての生還は。十分に奇跡的なことだとは思いますが。それにしても、あまりにも短すぎる生涯だと思います。

サラリーマン一筋

僕の父は、サラリーマン人生一筋を歩み続けました。新卒で上場企業に入社後。ただの一度も転職すること無く、ずっと同じ会社に勤務し続けました。会社のお仕事のことは、家庭内ではあまり喋る人では無かったので。詳細は分かりませんが。大学の工学部で育んだ設計技術を武器に、営業設計という形で、現場の声を聴きながら顧客に合わせた商品の設計をする。

若い頃は、自宅で発泡スチロールか何かでササッと模型を組み立てる。そんな技術も持っていたと記憶しています。休日になると、どこに外出することもなく、完全防音設計の「音楽室」に籠もってひたすらジャズを聴いたり、腕前はよくわからないですが、ギターやクラリネットを自己流で弾いたりという感じだったので。幼い頃から一緒に外に出て、遊んでもらったことなどはありません。

父は同期に恵まれていて、僕が幼い頃〜中学生時代までに毎年一度、家族ぐるみでスキーに連れて行ってもらった。スキーが滅茶苦茶上手な同期入社のTさんという方がいましたが。なんと後に同期Tさんは、父が勤務していた企業の代表取締役社長まで昇進をしてしまいました。

その超幸運なお陰だと思いますが。出世・昇進は比較的順風満帆で。営業設計・生産の部門で、部長→取締役になり。もうひとりの同期と、仲良し同期3人で、社長・取締役・取締役(反則級。笑)50代の頃には、マレーシアの支社長や、日本の子会社の支社長など、従業員400名規模の関連会社の社長も務めていました。

僕が高校に進学して、アメフトを開始した頃には。管理職になり、仕事にも余裕ができたのか?アメフトの父母会などに参加。写真係を務めたり、副会長を務めたりと、高校・大学の7年間、毎試合必ず観戦しに来ていました。秋のリーグ戦やプレイオフなどの時には。会社の同期や同僚も連れて観戦してくれていました。

幼い頃から父とは、一緒に遊んだり、何かを一緒に取り組んだりは、したことは無かったのですが。それでも、僕のアメフトを「見守る」活動は、フルで参加してもらい、とても心強かった記憶があります。

家族には恵まれた余生

父は、副業ビジネスも、株式投資をはじめとした投資の活動も一切せず。ただただひたすら真面目に、サラリーマンとしてのお仕事だけをし続けていました。僕がサラリーマンとして、香港の海外駐在員になった頃。支社長を務めていましたが。たまに日本一時帰国した際、妻と、まだ幼い2人の娘を連れて父に会いに行った時には。

「70歳まで働き続けたい!」「戦場で立ったまま死にたい!」的なことを、口にしていたのですが。60歳の誕生日の直前に、社長室で倒れているところを部下が発見。救急車で緊急入院したところ、心臓の大動脈剥離と診断。成功率(生還率)たったの10%という難易度の高い手術が幸運にも成功して生還。その後は、現場で働くことはできなくなりましたが。会社の顧問として、職場復帰しました。

けれども、その後も内蔵のあちこちが連鎖的におかしくなり。2度目の入院と手術を余儀なくされたタイミングで。サラリーマンから完全にリタイアすることになったのです。「70歳まで働き続けたい!」「戦場で立ったまま死にたい!」共に叶えることができなくなりました。

その後は、「音楽室」に籠もり、ジャズを聴いたり、腕前は謎の楽器を奏でたり。そして、調子が悪くなると手術というのを6回も繰り返して、70歳の誕生日を迎えました。悪くしているのは内蔵、脳はハッキリしているので、買い出しの時などに車で移動。重度の障害者認定されている状態なので、「どこでも駐車ができる」と喜んでいたのを記憶しています。

ともあれ、妻(僕たちの母)も、父の弟も同じ町内で健在。子どもは、僕と孔明弟の2人で、2人とも妻をめとり。孫は男の子2人、女の子2人。家族には恵まれた余生を歩んでいたことになります。また、父の代のサラリーマンの場合、年金は60歳から支給。退職金も企業年金も問題無し。共働きで、母70オーバーまで現役地方公務員教員職だったので。金銭的にも困ること無く、ゆったりとした余生を送り続けることができてました。

59歳で働けなくなることから逆算

実の父が、60歳を迎える前に緊急手術で重度の障害者、まともに就労ができなくなり。72歳3ヶ月で他界。僕がよく、「60歳をゴールに!」とお話していますが。実の父の状態を考慮した想定になっています。僕は今年47歳を迎えるので。お仕事がまともにできる年齢が、59歳までとすると、後たったの12年間しか残されていないことになります。

同じく72歳で他界したとしたら。僕の人生は残りたったの、25年しか残されていません。ここから想定された、今日時点の僕の取り組み。すなわち、労働者、労働経営者としては、残り12年間で完全に引退。その間も、「無敗の株式投資家」としての実力を高め続け。60歳からは、入退院を繰り返していても稼ぎ続けられる、「株式投資家」としての活動のみで生きていく計画を練り、実行に移し続けていることになります。

僕に万が一のことがあった場合を想定して、妻と2人の娘たちへの「生前贈与」も、着々と進めています。60オーバーになったら、自分が生きていく分の「株式投資の資金」だけを手元に残して。ゆっくりと、「株式投資家」としての活動を継続しながらも。次の世代への「バトンタッチ」が完全完了。子どもたちそれぞれが、僕以上の速度で、昇っていく様子を、見守り続ける余生を送りたいと思います。

そのために、自分でもお仕事ができる心身の堅牢性がある内に、労働経営者、経営者としてのビジネス活動に励みながらも。生活費として使わない資金は、「証券口座」に移動して、ひたすら「株式投資」をし続けている。既に父の生涯収入を遥かに超えた状態になっていますが。自分の次の世代には、そんな僕を遥かに超えていってもらいたい。すなわち、「子孫繁栄」です。

父の死を目の当たりにした僕は、改めてこの目標に向かって、着実に遂行していこうと決意を固めたのです。あなたはいかがでしょうか?人生は短いです。心身の堅牢性があり、お仕事ができる間に。病気やケガによって、堅牢性が崩壊した後のことを予め想定しておくことが求められると思います。そのための礎として、「50年無敗の株式大富豪直伝の訓え」に則り。今の内から、準備を開始してもらいたいと真剣に思うのです。「無敗の株式投資法」が学べる「LINE@北の株式投資大学」 https://koumei5.com/kabu_line

追伸
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