「令和」は本当に「多様性の時代」なのか?「価値」の一極集中

  • 2022.04.10
  • 2022.04.10

「成功=シアワセ」の価値観は人それぞれ・・・であることは、確かにと思いますが。それでも情報化社会の今の世の中、あまりにも、価値のあるものと、そうでないものとが、ハッキリと分かれすぎていて。価値の乏しい・・・誰も欲しがらない、余り物・ゴミを拾い集めることしかできない人生って、どうなのか?深く考えさせられてしまいます。

昭和の方が「多様性の時代」だったのでは?

令和の今は、「多様性の時代」と言われながら。これって、本当なのか?と疑心暗鬼の気持ちしか沸き起こらないのが正直なところです。実は・・・僕たちが生まれ育った昭和の時代の方が、今と比べると本当の意味での「多様性の時代」だったのではないか?と思うわけなのです。

当時の、情報の入手手段は、テレビ・新聞・雑誌・対人の口コミ・・・。ということもあり、ありとあらゆる分野で、様々なものが価値として認められていたというか。あやふやな状態で成り立っていたのでは?住む場所にしても、都会には都会の良さがあり、田舎には田舎の良さがある・・・というのも。情報の伝達が遅かったり遮断されていたりしていたことで、そう考えられていたのだと思うのです。

車も、ベンツ、BMW・・・トヨタ、日産、ホンダ、スズキ、ダイハツ・・・どの地域の人たちがどういう車に乗っているのか?地域性というものが見られていました。学歴にしても、都会と田舎では、異なる価値の基準がありました。食べ物も、旅行に出かければ地域特有の特産物を口にして、感動を覚えるものがありました。学生のファッションでも、都会から田舎に赴くと、何年も前に廃れたファッションを、時代遅れ?と驚くほどのタイミングで身にまとって歩いていました。

様々な人が、様々な仕事に就き、年収の基準も、様々なものがありました。学歴・職歴関係なく、一発大逆転のチャンスも本当に沢山満ち溢れていた中で。失敗を恐れず、勢いに身を任せて、猪突猛進で突き進んでいるタイプの人が大きな富を成すことができていた時代でもあったと思います。そういう意味では、本当の意味での「多様性」が見られた時代は。実は「令和」の現代ではなく、僕たちが生まれ育った「昭和の時代」だったのではないか?と思うわけなのです。

「価値」の一極集中がなされた「令和」

一方で、「令和」の今の時代は、「多様性」とは程遠い環境なのではないかと思います。なぜなら、テレビ、新聞、雑誌、対人口コミ・・・とは全く異なる属性を持った。インターネットが台頭してしまったからです。マスコミを生業としている大手企業が情報を発信しようがしまいが。YouTube、SNS、ブログなどを通して、個人が一気に情報を拡散できてしまう。

それが、東京で起こった出来事であっても、瞬時に日本全国の方々がアクセスして視聴・閲覧して情報を得ることができる。すると・・・良いもの、すなわち誰しもが欲しいと思うものも日本全国一斉に情報共有されてしまう。すると、供給に対して、需要が一瞬で高まって、みんなから価値あると認識されたものが、もっともっと価値があると認識されてしまう。

逆に、価値が無いと認識されたものが、より価値が乏しいものであると認識されてしまう。全ては乗算の加速度的に・・・。これによって、価値の一点集中化が発生してしまったわけです。例えば、住む場所にしても。東京の人気のタワマンは、憧れの都会ライフとして、より価値が高まっていきました。僕が高校時代を過ごした地元武蔵小杉も、駅前が再開発されてタワマン郡になりましたが。ここにも、地方からの勝ち組み移住組が沢山住んでいます。

ここ最近のマンションバブルによって、武蔵小杉駅前のタワマンは、あれほど沢山の数が立っているのに。売り物件・空き物件ほとんどありません。例えば、東京や神奈川の一部の人気の住宅街。番地内の物件数にも限りがあるので。元々住んでいる代々組が手放すわけがありませんし。関東近郊エリアからの勝ち組たちも、「億を積んでも買います!」的に新たに入ってくるので。人気エリアの人気の土地も、適正価格で出回ることはまずありません。タワマンにしろ、一軒家にしろ、どの県のどのエリアの物件に価値があるのか?みんながインターネット経由で情報共有できてしまうので。良いところに、余り物が落ちているわけがありません。

結局、それ以外の地域は、よほど地域に密着した勝ち組み地場産業の会社の経営陣を除き。住みたいから住むというよりは、ここに住む選択しか持てないから住まざるを得ないという、勝者か敗者でいうと敗者的な理由により住んでいる場合が多いのです。こういう価値の一極集中は、居住地という一番大きな買い物だけではなく。ありとあらゆる分野にて、どうようの現象が起きてしまっています。

車と学歴も「価値」の一極集中

どんな車に価値があるのか?これに関しても、一極集中が発生しています。ベンツやトヨタの一部モデルは。人気がある価値の高い車は、お金があっても、新車を買うことさえ困難な状態になっています。一方で、「この車、 本当に新車で買う価値と 意味あるのか?」という位、新中古の価格が暴落している車種も沢山あるわけです。それくらい、同じ車とは言え、明らかに、価値のあるものはより価値が高まり。価値の乏しいものは、閑古鳥が泣く二極化の状態が発生しています。

大学を最終学歴とした学歴も恐ろしいことになっています。トップ水準の国立大学、早慶・GMARCH・・・人気の大学は、年を追うごとにますます人気に。価値が落ちるどころか、上がる一方です。イコール人気の大学の合格獲得の難易度が年々上がっていきます。昭和の時代であれば、高校3年生の夏まで、体育会で部活動に励み。残りの期間で、頑張って勉強すれば合格を勝ち取れていたような人気大学も。今では、早期に、より早期に、情報収集と準備を開始しなければ、獲得できないものになっています。

インターネットを検索するだけで。どの大学が人気で、どの大学が人気無いのか?その理由は?都会の方々だけではなく、地方在住の方々でさえ知ることができてしまう。誰しもが簡単に確認できてしまうし。合格のために最低限抑えなければならない参考書や勉強法など、昭和の時代であれば、一部の進学塾が握りしめていたような秘匿性の高い情報が。日本全国誰しもが無料で簡単に検索によって知ることができてしまいます。日本全国、価値の高い大学に入りたいと思う学生が多くなり。合格の取り方も、すぐにインターネットを通して拡散されてしまう。

こういう中で、合格獲得の難易度が上がらない方が逆におかしいというものです。人間のライフスタイルの中で、お金がかかるトップ3、自宅・車・学歴・・・。このどれを見ても、人気のものの価値が高まり、人気の乏しい価値が低くなる。インターネットが台頭して情報化社会が生み出した世界は。本当に「多様性の時代」と言えるのでしょうか?

ありとあらゆるものの「価値」が一極集中

ファッションブランドも、勝ち組と負け組がハッキリとしてしまいました。例えば、僕が最近購入しているファッションブランドは。購入した瞬間に価値が高まることが決まっているものが多いです。一方で、そうじゃないファッションは、購入した瞬間に、価値が下がることが分かっているものが多く。極々一部のものに人気が集中して価値がドンドン高まり定価では全く買えない状況に陥り。そうでないものは、いくらでも簡単に買えてしまうので、そういうものしか手に入れることができない人たちが広い集めているだけ。この二極化も恐ろしいものがあります。かつてのように、都会で流行ったものが、数年後に田舎にやってくる・・・という状況ではなく。都会から田舎まで、知っている人は同時に流行を知ることができるので。誤魔化しが一切効かない状態になっているので。こういう現象が、続いてしまうのは、致し方ないことだと思います。

価値あるものが、さらに価値を帯びる。価値の無いものは、見向きもされなくなる。道端に落ちているゴミのように、誰しもが簡単に拾える。こういう世の中では、「成功=シアワセ」の価値観は人それぞれ・・・と言いながらも。価値あるものを、何でも手に入れられる「力」を持った人たちの「成功=シアワセ」。「力」を持っていないので、価値の乏しいものしか手に入れられないゴミ拾い的な人たちの「成功=シアワセ」。どんな基準で、価値観で、「成功=シアワセ」とするのか?考えれば考える程に思うことがあるわけです。