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孔明の「青色の時代」日当7,000円「ヤマトのバイト」と「パチスロ」
- 2020.06.29
- 2020.07.10
「目標年収1,000万達成」の過程において、「年収ゾーン」を今いる位置から、一つ一つ上げて行くことになる。
「青色→黄色→緑色→橙色→赤色※」
誰もが子供時代は社会で働いていない時代を経験しているということは、最初は全員「青色」からスタートをしている部分では平等なはずなのだが。一体どういうことがキッカケで「考え方」を上の「年収ゾーン」のものへと上げていくことができるのか?
僕自身の過去をはじめての「お仕事」まで時を巻き戻して、振り返り考察したい。まずは孔明の過去「青色の時代」。
目次
◯孔明はじめてのお仕事は「ヤマト運輸」仕分け
学生時代に、僕がはじめて行ったのは、自宅から車で10分ほどの場所にある「ヤマト運輸」の深夜のバイトだった。東横線綱島駅近辺の荷物は一度全てこのセンターに集められ、そこから各町内に配荷される。部活が冬休みのオフの時、深夜の仕分けバイトが、日当7,000円というのを耳にして、飛びついた。当時は体育会アメフト部に所属していたこともあり、筋力・体力だけには自信があった。RPGゲーム的には知力の数値がゼロの状態だった。
「ヤマト運輸」でのバイトは、真冬の2週間ほどの部活シーズンオフで、訛りがちな体をほぐすためにも丁度よく一石二鳥だと思った。夜22時開始で朝までただひたすら肉体労働。お仕事の内容は、全く同じ動作をただただひたすら繰り返すだけの単純作業。
どこかのセンターから荷物を運んだトラックが届いたら、トラックから積荷を荷台ごと降ろして、自分のところまで引っ張って行く。荷物には重いものから軽いものまである。「樽町二丁目~」「樽町三丁目~」荷台から荷物ひとつひとつを
下ろす担当は、ベルトコンベアーのようなところに、荷物の宛名のところに書いてある、町名&番地名を読み上げながら、荷物を一つ一つ流して行く。
一つのベルトコンベアーには、それぞれの町のエリア担当者が居て、自分の担当の町宛の荷物が流れて来たらピックアップして、町宛の荷台にまるで「テトリス」のように崩れないようにバランス良く積み上げていく。真冬の0度以下の気温の中、この作業を黙々と途中一回の休憩を挟んで朝まで続ける。
「お仕事」としては部屋の中でパソコンに向かってパチパチしかしなくなった、今考えると、よくぞそんな重労働を何時間も継続できたな?とは思う。しかし不思議なことに、脳を一切使わず体を使うだけの単純作業の繰り返しの肉体労働は、それほど疲れを覚えず意外と何時間でもできてしまう。
荷物を積んだヤマト運輸のトラックがすぐにつけられる場所。建物の中と言えどもシャッターは空いたまま。当然ながら、外に面していて、暖房なども皆無な場所であるが、常に身体を動かし続けているし、軍手もしているので一切寒さも感じない。同じエリア担当者の中には、大学生の僕が一番若くて、皆30代、40代の昼間の本業を持つ方々ばかり。昼間は地方公務員、サラリーマンをやっている方々ばかり。(今考えれば地方公務員は副業禁止なはず。笑)
荷物の仕分けが終わり、次のトラックが荷物を届けるまでの間に、たまに会話などをする機会もあった。中には、このアルバイトだけで、生活をしている「ベテラン」の方もいた。なるほど、日当自体は安くないので、一人暮らし男子であれば、十分過ぎるほど生きられてしまう。皆、色々と深夜の仕分けバイトをやらざるを得ない諸事情があったようだ。
このお仕事に求められることは、
- 届いた荷物に書かれている名前を間違えずに読み上げること
- 流れて来た自分のエリアの荷物をピックアップして荷台に積み直すこと
- 体力が続くこと
頭を使ったりしなくても、間違えようの無い仕組みがあった。求められるのは、深夜に身体を動かし続けることただそれだけ。
◯「青色ゾーン」の「考え方」と「行動」パターン
僕の人生はじめての社会でのお仕事は、「ヤマト運輸」の深夜の仕分けバイトという、単純労働の「青色」のお仕事からスタートだった。あの頃はまさか、自分が「赤色」の「年収ゾーン」までたどり着けるなどとは、微塵たりとも思っていなかった。・・・というか、「お金持ちになる!」とか、「修羅になる!」とか、そういう高い志は一切持ち合わせていなかった。
そんな当時の僕は間違いなく、「金融資本主義ピラミッド」の底辺「青色」の人間だった。「考え方」も「行動パターン」も全て。その証拠に、ヤマト運輸で手に入れた日当7,000円を握りしめ。厳密に言えば入る予定のお金を元手に、そのお金をさらに増やそうと、次の日になれば日中に「パチスロ店」に向かって打っていた。
寝ないで「モーニング」めがけてそのまま「パチスロ店」に直行。手元のお金だけを見て、目先のお金がわずかに増えた減ったで一喜一憂していた。どうしようも無い、「考え方」の状態だったとも言える。ちなみに、妻はこの時から、一緒だったので、よくもまあ、こんな男についてきていたなと思う。
◯大学内のネットワークは構築していた
ただ一つ。この時普通の「青色ゾーン」の方々とはほんの少し違う「工夫」があったといえば。「人間関係」は重要視していて、周りとの「コミュニケーション」を取り続けていたところ。
大学で構築した、アメフト部以外の人間関係を頼りに、友人がスタッフとして働いている新宿歌舞伎町の某パチスロ店へ同じく大学の別の友人と共に。前日からの「設定」が変わっているかどうか?の情報を頼りに「パチスロ」していたので、トータルでは増やすことが出来た。
普通、スポーツ推薦の体育会系の人は同じくスポーツ推薦の体育会系の方々とだけつるんだりしている状態だったが。僕の場合は、
体育会以外の方々とも積極的に交流を図り、大学内の人脈を広げていた。すると時折、このような「情報」を持ってる同級生に会えることもある。
それほど意識してはいなかったが、結果的に、人脈を頼りに「情報」を獲得して、「情報」を元に金儲けに繋げていたことになる。また、大学内で人脈を広げていたお陰で、大学内のテスト用の「まとめ資料」などは、常に「最新版」のものが手元にあった。その結果、単位が取れず1年、2年の留年が当たり前の日常だった、「体育会アメフト部のスポーツ推薦組」としては歴代ではじめて。大学4年間でただのひとつも単位を落とすこと無く、オンタイムで卒業することができた(笑)。
横のつながり「人間関係」を重要視して、本業の学業と、お小遣い稼ぎにつなげる。当時を振り返えってみると、僕が後ほど「青色ゾーン」から脱出する僅かな「兆」は、ここの部分にあったのだろうか?