「欲しいモノ」を手中に収めても「世のため・人のため・自分のため」

  • 2020.09.01
  • 2020.09.01

「欲しいモノが手に入らない屈辱にだけは耐え続けることはできません!」「修羅」であり続けられる方々に共通していることではないだろうか?「成功=シアワセ」の形は人それぞれ違う。

家族と一緒に自宅・車・子供の教育「選択肢」のある人生を歩み続けることだったり。ひとりでスポーツカーを乗り回して都会の高級マンションに住みパーティーを愉しむことだったり。イエスやブッダの如く何かの道を極めて、弟子に囲まれる人生を送ることだったり。どんな人生を歩みたいのか?「お金持ち」になった先にある「欲しいモノ」は人それぞれで、異なって来る。

何が正しくて、何が間違っているなどは無い。「欲しいモノ」を手に入れる手段である「お金」をどのように稼ぐのかも違う。けれども、「欲しいモノ」がでに入らない屈辱にだけは耐えられないという部分だけは共通している。

「修羅」と呼ばれる人間は共通して、この部分だけは絶対にブレることは無い。

変わる必要があるのなら屈辱に耐えることを選ぶ人たち

「私が欲しいモノをあいつは既に手に入れている!どうして私は今日の時点で手中に収めていないのか?」人生の中で、こういうシーンに遭遇することがあるはずだ。この時、何を考え、どう行動するかで、人生は全く別物になって来る。

世の中の大多数常識に基づく普通の「考え方」を持った方々は。その時、「欲しい」とは思うのだが、今いる自分の範囲内で、手だけ伸ばして届くかどうかを確かめて、今いる自分の範囲外に出なければ手に入らないと分かった時点で、いとも簡単に諦めてしまう。

その後は、「見ざる・聞かざる・言わざる」的なモードに突入。または、漠然と、「いつか「宝くじ」とか、「FXや仮想通貨」のギャンブルで「大当たり」でもしたら改めて考えよう・・・。」「先延ばし」というか、考えることも行動することも完全に放棄してしまうのだ。

23歳前後で社会人になった後、そういうことを繰り返していく中で、33歳、43歳、53歳・・・年を重ねるごとに、ありとあらゆるモノを諦め続けて行く。こうして、平々凡々な人生は終焉を迎えてしまうのである。

23歳前後で社会人になった後、生涯に渡り「欲しいモノ」を諦め続ける人生。つまり、「欲しいモノ」が手に入らない屈辱に耐え続ける人生。実は、メチャクチャ忍耐強いのだと思う。

変わる必要があるならば死の直前まで変わる

一方で、ごく一部の「修羅」と言われる人は、自分が欲しいと思っていたモノが手に入らない屈辱的な状態に、耐えることはできない。

自分が親に養われていた子供の内には、欲しくても手に入れられなかったモノを、23歳前後で社会人になった後、「ヨーイドン!」のスタートダッシュ的に、片っ端から手に入れようとする。この際、「今の自分の考え方を大切にする」VS「欲しいモノを手に入れることを優先する」両方の天秤をかけた中で、常に「欲しモノ」の方が圧勝してしまうので。

「欲しいモノ」を手に入れるためなら、いくらでも学び、いくらでも自分を変えることができる。年上からは当然のこと、年下からも、老若男女問わず、「手に入れる手段」を知っていて教えてくれる人がいたならば。直ちに学びに行く。

「自分が自力で手に入れられなかったモノを彼は手に入れているのだから・・・」アッサリと負けを認めて、どれだけでも自我を圧し殺してでも、自分を全開放する形で、「方法」を学び取ろうとする。

その際、「根底」にあたる「考え方」をも変える必要があるというならば、「プライド」も、「信念」も捨て去り、いくらでも変えようと学ぶ。

  • 学ぶ姿勢
  • 謙虚さ
  • 素直さ

・・・こういうモノは、実は「絶対に欲しいモノを手に入れてやる!」その強烈な感情から来るものなのだ。そして、一刻も「欲しいモノ」を手中に収めようと、全力で考えながら、行動に移すのだ。

ファーザー:「オレの頭はかぼちゃよりも軽い」
ファーザー:「変わる必要があるなら、死の直前まで変わる」

これらのお言葉の真意が、見えてくるはずだ。

無害で「いい人」の正体とは?

世の中の常識に基づいた普通の判断基準で、「あの人は無害でいい人だね!」と周りから言われるのはどちらの人なのか?「欲しいモノ」があった時、「変わる必要があるなら素直に諦める人」なのか?「根幹の考え方を変えてでもなんとしてでも手中に収めようと行動し続ける人」なのか?当然ながら、周りの人たちから「いい人」というのは前者。

何でもすぐに「諦めてくれる人」のことを言う。なぜなら、仮に彼らに「欲しいモノ」があったとしても。「お先にどうぞ!」「私は諦めますからあなたが取ってください!」全部他人に譲ってくれる。自分以外の他人が、本当は自分が「欲しかったモノ」を手に入れてしまっていたとしても。じっとその屈辱に耐え続けてくださるのだから。

これを「いい人」と言わずに、誰を「いい人」というのだろうか?「いい人」というのは、自分が決めるのではなく、他人が決める。他人にとって都合の「いい人」なのだ。

この視点から見ると、世の中の大多数の方々は、「ご自身のプライド」さえ尊重してあげれば、それ以外の「欲しいモノ」は何でも譲ってくださる方々ばかりなので。視点を変えれば世の中は「いい人」だらけなのかもしれない。

「世のため・人のため・自分のため」

「欲しいモノ」を何でも手に入れてしまう「修羅」が「悪い人」なのか?「本物」はそんなことは無い。

なぜなら、「欲しいモノ」を手に入れるためのプロセスの中、ビジネス・投資の活動で、ただの一度も「飛んでイスタンブール」になることなく、勝ち続けていく過程において。自分だけが勝ち続けてしまい、直接関わって下さった方々に「負け」を量産してしまっては、「継続出来ない」ことを知っているので。自分が直接関わる方々も「勝ち続ける」仕組みを必ず導入している。

自分だけが「ソロプレー」で「勝ち続ける」のではなく、どちらかと言うと、「チームプレー」で、「あなたもWIN、あなた方もWIN、わたしもWIN、一緒に「WIN、WIN、WIN」を謳歌しましょう!」何でも「欲しいモノ」を手に入れ続けることができる本物の「修羅」ほど、この方程式を創り出し、実際に実現させてしまう力を持つ。

「無敗神話」の大富豪ファーザー、マスターヒロさんの「勝ち方」はまさにこれである。これを図式化すると、「世のため、人のため、自分のため」という「チームプレー」勝利の三角形を描くことができる。僕たちが「修羅」として目指しているのも、まさにこれである。

「設計図」の中に誰か負けてしまう人がいないか?常に考え続けている。これは、手掛ける「ビジネス」も、「株式投資」も「不動産投資」も同じ。全て「チームプレー」が前提であり、直接関わる方々全員が、勝ち続ける仕組みを構築。登場人物の誰にとってもそれぞれの利益を享受できる「美味しい話」になるので、周りも積極的に協力し続ける形になっていくのだ。

誰がどんな人生を送っても自由なのであるが、「欲しいモノ」を諦め続け屈辱に耐え続ける人生を送るのか?関わった人みんなが「WIN-WIN-WIN」であり続けた上で「欲しいモノ」を何でも手に入れ続けるのか?どちらの人生を送るのが賢明なのか?改めてよくよく考えることが求められるのではないだろうか?「欲しいモノ」を何でも手に入れる!

その目標を持ったまま、直接関わってくれるみんなが「WIN-WIN-WIN」になる設計図の入り口が『5ポケッツ』。